special review 山海塾「遥か彼方からの―ひびき」リ・クリエーション
情報過多社会を生きる
~拡大鏡と顕微鏡の視座を持つことがグローバルな成功への鍵~
情報過多社会に生きる現代人は、手広い情報摂取がグローバルなスタンスを育んでくれると思いがち。だが無作為、無目的、無際限に情報収集したところで自分軸がぶれるだけ。そうではなく「自分のなかにある他者、他者のなかにある自分」を探求するという基本姿勢を持って、顕微鏡と拡大鏡の視座で世界に丁寧に触れていく。それが世界的視座を獲得する道であることを、海外での40年以上にわたる活動から天児牛大(あまがつうしお)率いるダンスカンパニー山海塾の作品は教えてくれる。
review
「他者のなかにある自分」と「自分のなかにある他者」
「グローバルな視座でものを見る」ことが最近のビジネスパーソンの基本姿勢だが、果たしてそう言われたときに「具体的にどう視野を変えればいいのか?」と、深々と考えた人間は意外と少ないのではないだろうか。言うまでもなく、無目的かつ無際限に、情報網を拡張しても自分軸がぶれるだけ。そうではなく「他者のなかにある自分」と「自分のなかにある他者」を丁寧に探ってゆく。そのような探求作業のすえに辿りつく「ユニバーサリティ(普遍性)」を志向して40年以上活動を続けてきたのが、振付家・天児牛大率いる舞踏カンパニー山海塾だ。
未知へ向かい、退路を断つ意志
いまでこそ「舞踏(BUTOH)」と言えば、日本以上に世界で認められる芸術形態のひとつとなった。だが天児が活動をはじめた77年当初は、まだ世界の人々はこのようなバレエの飛翔感とは逆に「重力」を志向するダンスがあることさえ知らなかった。そんな折り、1978年に東京で発表した『金柑少年』を観て感動した当時の在日フランス大使館文化参事官のジェラルド・コスト氏が「フランスで公演をしないか」と彼らに声をかける。いまのようにネットもなく気軽に海外に行けた時代ではない。千載一遇のチャンスだが、同時に海の向こうに何があるかもわからない。だがそこで天児はフランスに行くと即答。また招聘された1980年の国際演劇祭ナンシー・フェスティバルで「日本に帰るつもりはない。可能なかぎりフランスで活動したい」と記者会見で前代未聞の「居残り宣言」をする。この退路を断った強烈な意志。その意志力が突破口を開き、山海塾は1982年以降、ドイツのピナ・バウシュ、米国のマース・カニングハムといった一流振付家たちと堂々肩を並べ、世界的舞踊の名門劇場であるパリ市立劇場を拠点に新作発表をつづけることになる。
多様性のなかの普遍性
そんな世界的カンパニーを率いる天児牛大はよく、まさに浴びるように世界中の多様な情報を享受していった経験のすえ、最終的には多様性と同じほどすべての人に通ずる「普遍性」があることに気付いたと語る。そして生死、時間、宇宙への畏怖といった「普遍性の核」を、清らかに、シンプルに、表現することを志していく。そして実際に、世界47カ国700以上の都市に受け入れられる国際カンパニーに成長する。また今回リ・クリエーションされる『遙か彼方からの—ひびき』(初演1998年)は、英国舞台芸術界で最も権威のあるローレンス・オリヴィエ賞を2002年に受賞した。
拡大鏡と顕微鏡の視座
『ひびき』のような作品から学べることは、「普遍性」とは、拡大鏡と顕微鏡の双方の視座を獲得することで見えてくるものだということ。例えば水が浅く張られた巨大な盃型の器に、すっと指を入れる。その微細な動きが空間全体に及ぼす音と光の波紋を感受するには、ミクロな変化の察知力が必要だ。あるいは舞台一面に敷かれた砂を踏みしめながら、一直線に潔く前進する歩み。そのダイナミックな動きの凄味を享受するには、宇宙の摂理のなかで意志を貫こうとするちっぽけな人間へのマクロな慈愛が必要となる。現代情報社会は、この拡大鏡と顕微鏡を半ば捨て去ってしまっている。つまり情報の質より量を求めたあげく、皮肉なことに、極めてローカルな会話しか理解できない感性が乱造されている。こうした情報過多社会で、山海塾の作品は、雑音を浄化して普遍性の感性を育む、またとない芸術的邂逅の機会を観客に与えてくれるのだ。
文・岩城京子
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主催/(公財)北九州市芸術文化振興財団
共催/北九州市
助成/文化庁文化芸術振興費補助金(劇場・音楽堂等機能強化推進事業)|独立行政法人日本芸術文化振興会